タクドラたみの『新潟お出かけ散歩』

新潟の観光地、お出かけスポット紹介。

【3分観光ガイド】『北方文化博物館②「伊藤家編」』

『旧伊藤邸 主屋棟』

 

『豪農の館』と呼ばれる「北方文化博物館」は、かつて、越後一の大地主「伊藤家」の大邸宅でした。

 

ここを訪れる際、伊藤家の歴史を代を追って整理すると、より「北方文化博物館」への理解が深まると思います。

 

特に、初代、二代目、そして、五代目から八代目がカギなので、そこを、押さえておくといいでしょう。

 

 

 

初代 文吉

 

江戸時代中期の1756年、初代文吉は、20歳で、約13,000㎡(東京ドームのグランドと同じくらい)の畑を与えられ、一人の百姓として分家。

間もなく、染物屋のきよを嫁とし、百姓をしながら、藍の商売を始めました。

お金を貯め、畑を買い足し、商売も繫盛させ、家の建て替えや、蔵を作り、徐々に豊かになっていきました。

 

二代目 伊藤文吉

 

初代 文吉の子は、二代目とし、35歳で 文吉 の名を継ぎました。

商売は、藍の商売の他に、雑穀、質屋、倉庫業を始め、やがて百姓をやめ、屋号「いはの家」を営みました。

その後、名字帯刀を許され「伊藤文吉」と名のるようになり、豪商となっていきました。

 

五代目 伊藤文吉

 

五代目 文吉の時、時代は、江戸から明治へ移りました。

明治15年から明治22年、8年の歳月をかけ、現在の「北方文化博物館」かつて「豪農の館」と言われていた、伊藤邸を作りました。 

 

六代目 伊藤文吉

 

北方文化博物館の見どころの一つ、日本で唯一の三画家屋「三楽亭」は、6代目 文吉が21歳の時に設計し、明治24年に完成。

みどころ「建物」 | 豪農の館「北方文化博物館」 (hoppou-bunka.com) より転用

 

明治25年、文吉 28歳の年に、嫁を迎え入れ、その披露宴は、三日三晩、行われたと言われています。

その時の、約5メートルの献立表も、北方文化博物館の見どころの一つです。

 

七代目 伊藤文吉

 

七代目 文吉の時代は、明治から昭和へと、激動の時代でした。

豪農として繁栄した伊藤家でしたが、戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の家宅調査などがあり、伊藤邸は伊藤家 個人の財産として、残しておくことはできませんでした。

そこで、七代目 文吉は、苦悩の末、伊藤邸を「財団法人北方文化博物館」に寄付し、初代館長となりました。

そうして、伊藤邸は、戦後の私立博物館第一号として、新たな道を歩むことになります。

 

八代目 伊藤文吉

 

昭和27年、八代目 文吉を襲名。

二代目館長として「北方文化博物館」を発展させました。

昭和33年、5年の歳月をかけ完成した庭園は「北方文化博物館」一番の見どころです。

 

八代目 文吉は、2016年他界。

八代目に子がなかったので、文吉の名は、ここで途絶えることとなりました。

 

【基本情報】

 

「開館時間」

・4月~11月 ➡ 9:00~17:00

・12月~3月 ➡ 9:00~16:30

 

「入館料」

・大人:800円

・小人:400円

 

「公式ホームページ」

豪農の館「北方文化博物館」 (hoppou-bunka.com)

hoppou-bunka.com

 

【アクセス】

新潟駅南口から車で約30分

 

【参考記事】

【3分観光ガイド】『北方文化博物館①「概要編」』

『北方文化博物館(豪農の館)』(新潟市江南区)  

【新潟観光ガイド】基本情報編(新潟市中心)